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2006/06Archive for

art and design

前の記事のシンポジウムのテーマが、「テクノガジェットはアートになるか」だった。
話を聞いていて思ったのは、とにかく「アート」という言葉の定義を明確にしてほしい、ということだった。これはまあ自分が大学時代に哲学なんていうものをかじったせいで、言葉の「定義」というものに必要以上に敏感になっているせいもあるのだけど。
「デザイン」も「アート」も、どちらの言葉もかなり広い領域をさす言葉になってしまっている現状では、その二つの境界もかなり曖昧になってきているように思う。

ただ、自分は「デザインする」という事を生業の一部にしている関係もあって、「デザイン」と「アート」というものの区別だけは自分なりに整理している。明快に「コレ」という基準点があるわけでもないのだけど、自分の中ではおおよそこんな区分になっている。

作る人間の内側に理由があるのがアート
作る人間の外側に理由があるのがデザイン
「そうしたい」のがアート
「そうあるべき」なのがデザイン
衝動に近いのがアート
理性に近いのがデザイン
説明できなくていいのがアート
説明できなくてはいけないのがデザイン

つまり、「誰かのために(場合によっては自分のためでも)」「何らかの目的意識をはっきりと持って」最善を尽くすのがデザインで、「誰かのためというわけでもなく」「欲求に正しく従って」できてしまったのがアート、だというのが自分の自分なりの定義。
だからよく目にする(そして自分も時折やってしまう)「自己満足的な『デザイン』」とか「目的意識の透けて見える『アート』」とかいったものには不満を感じる事が多い。

もう一ヶ月ほど前の話になるけれど、日本科学未来館でやっていた「予感研究所」イベント内で開催された「デバイスアート・シンポジューム」で、アーティストの児玉幸子さんがこんな事を言っていた。
『UIデザインの本をいくつか読んだ。使い勝手の向上のためのことはいくつも書いてあったけど、ユーザを感動させるということについて書いた本はなかった』

UIといえばまず「ユーザを迷わせない」「ユーザが機器の持つ機能をストレスなく活用できる」ということを考え、それを中心に設計するものだ、と考える。だからまず「使い勝手」だとか「能率」「効率」だとかいった事が最優先で頭に思い浮かぶ。UIで「人を感動させる」とか、UIと「感動」というものを結びつけるという事は自分なんかにはなかなか「出てこない」発想で、そこがとても「面白い」と感じた。

じゃあ感動させるUIっていうのはどんなものだろう。
触れている事が快感だとか、触れる事にドキドキできるとか、使っているという体験が二度と忘れられないほど印象的だとか、これまでに感じたことのない感触だとか、使いやすさが極みを一歩越えてUIと操作が一体化しているとか、肉体とUIとの境界がもはや曖昧だとか、UIであるのにすでにUIですらないとか……。

こうやって何となく「それっぽいもの」を並べてみるのは簡単だけど、それを実際に現実まで落とし込む事は容易なことじゃない。

でも、もし使う事が「感動」につながるような、そんなデザインだとかUIだとかを作る事ができたなら、それは「もっと使いたい」と思わせることができる、という意味ではビジネスチャンスにだって十分になりうる。そう考えてみると、これはもっと熱心に取り組んでいいテーマなのかもしれない。いや、それ以前にそんなUIがありうるなら、自分が何よりもまず「使ってみたい」。
今後作っていくものに、ほんの少しずつでもそんな要素を織り込んでいけたら、と思う。