
退屈な女より もっと哀れなのは かなしい女です。
(中略)
追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です。
死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です。
(『鎮静剤』マリー・ローランサン)
前のエントリーを書きながら、「忘れる」ということについてふと考えた。
「覚えなくてもいい世の中」になったと思う。
子供の頃と比べると、色々なことを覚えなくなった。
自分が小学生くらいの頃は、友達の家の電話番号をちゃんと覚えていたし、漢字なんかもよく覚えた。
でも今は電話番号は携帯電話の中に入っているし、漢字はパソコンが提示してくれる中から選べばいい。分からないことがあれば検索エンジンで調べてみればいい。自分の脳の中に記憶として残っていなければならない情報は、少しずつ少しずつ減っていっている。そんな気がする。
以前読んだ「情報デザイン入門」という本に、”情報建築家”リチャード・S・ワーマン氏が情報デザインの道に進むきっかけとなったエピソードとして「百科事典の中身を覚える必要はない。知りたいことが百科事典のどこにあるかを探す方法を身につければいい」と親に言われて…という話が書かれていた。
今やまさしく「検索エンジンの使い方さえ覚えれば、世の中のあれこれを覚える必要はない」状況であるとも言える。
でも別の見方をすると、この現状は、忘却をしてしまう不確かなデバイスである「脳」に情報を溜め込まず、それを外部に出して別のものに記憶を任せる、ということを徹底追究しようとしている、ともいえる。それは自分が何かを忘れたいのではなく、「より確実に自分の情報を保存したい」という願いとも取れる。
日記も、今こうして書いているBlogだってそうだ。
情報を失わないために、覚えなくていいようにする。
結局人間はできるだけ忘れたくない。そういうことなのかもしれない。
Googleは「自分の外に記憶される情報をうまく引き出す」技術で大きくなった。今度は「自分の情報をうまく外部に保存する」ほうでも何か大きなイノベーションがあるかもしれない。
—
と、こういう事を書いていてふと「他人と記憶を共有する」とか、「記憶の共有による人格の混乱」とかいうアイディアが少し沸いた。これもやはり忘れたくないのでここにこうして書いておいてみる。
by zk | - 23:42Diary | コメント (0)