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2006/05Archive for

MICHAEL KENNA IN JAPAN

東京都写真美術館で開催中のマイケル・ケンナ 写真展「IN JAPAN」に行ってきた。
マイケル・ケンナは自分が「写真」というものに対する興味を抱くきっかけになった写真家であり、とても思い入れが深い。

風景の切り取り方だったり、構図だったり、濃淡、階調、そういうものが素人目ながらにも本当に完璧としか言いようがなくて、もうただひたすら感服。
写真は全てモノクロなんだけど、カラー写真よりもずっと豊かなイメージというか色(?)を持っているような、そんな印象がある。

…とにかくもう何か言葉にするのが全部陳腐に思えるくらい感服。

氏の写真を見ていると、本当に「丁寧に」何かを作りたいという思いが強くなる。
いつかあれくらい「丁寧な」「突き詰めた」ものを作れる人になりたい、と、そう思う。

Blue Note

Michel CamiloのBlue Note Tokyoでのライブ、5/26の1stステージを見に行ってきました。

到着が遅くなったのもあり、席は最高の場所、とはいかなかったけど、それでも手元が見える場所で音のバランスも悪くなく聞けてよかった。

期待していた”ラテンフレーバー”も結構多めで、思わず踊りだしたくなる場面も何度か。そして何よりも「On Fire」の演奏があったのがたまらなかった。
ドラム、ベースとの息もぴったりで、席から表情は見えなかったけれども凄く楽しそうなのが音から伝わってくる、そんな”たまらない”ライブでした。

次に来る時も絶対また見たいなぁ…。

utagau

「信じる」ということは、とても難しい。
信じるには理由がいる。信じるに値する、完璧で、一点の曇りもない理由が。
それはとてもとても難しい。僕が「ここにいる」という事、「世界がある」という事ですら、いとも簡単に疑う事ができる。

東洋の思想・哲学を学んでいた大学時代に知ったのだが、仏教の経典というのは途方もない、膨大な量が残されているそうだ。『大正新脩大藏經』という仏典をまとめた本があって、それは全部で100巻になるという。しかしそのほとんどは釈迦の残したものではなく、後代の人が書いたものだ。それほどまでに膨大な量になったのは、ほんの少しでも疑う余地を残さないために、初期の教えにあった「疑う余地」を補っていった結果なんだろうな、と思った。宗教にとって「信じられる」という事はとても大切なことだから。
たった一つ「信じる」ということだけのために、それほどまでにたくさん考えて、言葉を補っていかなくてはならないなんて、なんて大変なことなんだろう。

疑うことは、とても簡単だ。たった一つでも疑う理由があればいい。「信じるに足る理由」がなければいい。疑い始めればキリがない。どんなものだって、疑う余地の一つくらいはある。

だから「信じる」という言葉は中々口にできないし、「信じてください」とも中々いえない。
でも、時に「信じてください」と言う事しかできない時があって、そんな時は本当に、いるかいないかも疑わしい神様に祈る心地になる。

apriltrap

自分でこんな事を言うのも何なんだけど、小中学生くらいのときは運動も勉強も結構できるほうだった。
でもよく考えてみたら、それはある意味当然のことだったのかもしれない。
自分は4月もかなり早い方の生まれで、同じ学年の中では一番「成長」してる部類に属してたはずだ。同じ学年の中でも4月生まれと3月生まれじゃ成長具合に1年もの差がある。あの成長速度の著しい時期の1年といったら、能力的な成長度合いにしてもかなりの差異になるはずだ。なるほど自分はある意味「できて当前」だったのか。

子供の頃の周囲からの評価は、その子供の性格だとかその後の人生だとかに多大な影響を与える。
例えば「自分はダメな子だ」と自分で思い込むことによってダメになってしまう子供だってありえる。「よくできる」と思う事で歪んでしまう事だってあるだろう。
もちろん、統計を取ってみたらそこには何の関係もないかもしれない。しかし最大で1年分も成長度合いに開きのある子供を、「学年」という区切りでひとまとめにして、その中で評価をつけたり判断したりするというのは、もしかしたらもの凄く危険なことをしているのではないか。そんな事をふと思った。

forget

退屈な女より もっと哀れなのは かなしい女です。
(中略)
追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です。
死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です。

(『鎮静剤』マリー・ローランサン)

前のエントリーを書きながら、「忘れる」ということについてふと考えた。

「覚えなくてもいい世の中」になったと思う。

子供の頃と比べると、色々なことを覚えなくなった。
自分が小学生くらいの頃は、友達の家の電話番号をちゃんと覚えていたし、漢字なんかもよく覚えた。
でも今は電話番号は携帯電話の中に入っているし、漢字はパソコンが提示してくれる中から選べばいい。分からないことがあれば検索エンジンで調べてみればいい。自分の脳の中に記憶として残っていなければならない情報は、少しずつ少しずつ減っていっている。そんな気がする。

以前読んだ「情報デザイン入門」という本に、”情報建築家”リチャード・S・ワーマン氏が情報デザインの道に進むきっかけとなったエピソードとして「百科事典の中身を覚える必要はない。知りたいことが百科事典のどこにあるかを探す方法を身につければいい」と親に言われて…という話が書かれていた。
今やまさしく「検索エンジンの使い方さえ覚えれば、世の中のあれこれを覚える必要はない」状況であるとも言える。

でも別の見方をすると、この現状は、忘却をしてしまう不確かなデバイスである「脳」に情報を溜め込まず、それを外部に出して別のものに記憶を任せる、ということを徹底追究しようとしている、ともいえる。それは自分が何かを忘れたいのではなく、「より確実に自分の情報を保存したい」という願いとも取れる。

日記も、今こうして書いているBlogだってそうだ。
情報を失わないために、覚えなくていいようにする。
結局人間はできるだけ忘れたくない。そういうことなのかもしれない。

Googleは「自分の外に記憶される情報をうまく引き出す」技術で大きくなった。今度は「自分の情報をうまく外部に保存する」ほうでも何か大きなイノベーションがあるかもしれない。

と、こういう事を書いていてふと「他人と記憶を共有する」とか、「記憶の共有による人格の混乱」とかいうアイディアが少し沸いた。これもやはり忘れたくないのでここにこうして書いておいてみる。